『淡墨の宿根尾住吉屋』と作家『宇野千代』さんとの縁
根尾村の淡墨桜(うすずみざくら)を全国的に有名にした『宇野千代』さんは、先代のおかみ(女将)時代に、ここ住吉屋を実宿として小説「薄墨の桜」を執筆しました。
この小説の中には“住吉屋”の実名が出てきます。
宇野千代さんと住吉屋はそんな逸話があります。
山口県玖珂郡(現・岩国市)出身。実家は酒造業を営む裕福な家だが、父親は生涯生業に就いたことはなく、博打好きだった。千代が幼いころに母親がなくなり、父親は千代と12歳しか違わない若い娘と再婚。千代は実母と思って育ち、大変慕っていた。この継母が「おはん」のモデルとされる。
岩国高等女学校(現・山口県立岩国高等学校)卒。14歳で義母の姉の子(従兄)藤村亮一と結婚するが10日ほどで実家へ帰る。小学校の代用教員となるが退職。その後朝鮮京城へ行くがとんぼ返りで舞い戻り、元夫の弟・藤村忠と結婚。京都に住んだあと上京。本郷三丁目の西洋料理店・燕楽軒で給仕のアルバイトを18日間している間に久米正雄や芥川龍之介と知り合い、今東光とは親交を結んだ。その後北海道へ行くが、1921年(大正10年)『時事新報』の懸賞短編小説に『脂粉の顔』が一等で当選し作家としてデビュー。
文章がこんなに金になるのかと驚き、執筆活動に専念。『墓を暴く』を中央公論に送ったが、いっこうに返事がないので上京したところ、すでに掲載されていたことを知り、その場で原稿料をもらう。あまりの大金であったため、その足で岩国の実家に戻り、母親に原稿料の一部を渡す。北海道に戻る途中、今後の打ち合わせとお礼を兼ねて中央公論に立ち寄った際に尾崎士郎を紹介され、ひと目惚れし、そのまま東京で暮らし始める。
1936年にはファッション雑誌『スタイル』を創刊。表紙絵は藤田嗣治、題字は東郷青児が描き、のちに夫となる北原武夫とともに編集を務めた。戦時中にいったん廃刊するものの、1946年に再び刊行し、成功を収めた[4]。着物のデザインも始め、スタイル誌で紹介、販売もした。
作家としては寡作で、戦後10年近く沈黙していた。1960年代からまた書き始め、1980年代からは女性向けの恋愛論・幸福論・長寿論などのエッセイを数多く書いた。小説は10年かけて書かれた『おはん』、『色ざんげ』(東郷青児との関係を描いたもの)、『或る一人の女の話』などがある。1970年(昭和45年)に『幸福』で女流文学賞、1972年(昭和47年)に日本芸術院賞受賞[5]、同年日本芸術院会員。1974年(昭和49年)には『雨の音』を発表、1982年(昭和57年)に菊池寛賞受賞。その翌年発表された『生きて行く私』は自伝的小説として以後宇野の代名詞となる。1990年(平成2年)文化功労者。
晩年に到るまで旺盛な活動を続けた女性実業家の先駆者としても知られる。結婚離婚を繰り返すたびに家を建て替え、「数えて見ると、十一軒建てた勘定になるから」と、それを『私が建てた家』という随筆にしてしまったり、長寿で、それを『私何だか死なないような気がするんですよ』という書名のエッセイにまとめてしまったりする愛嬌があった。
1996年6月10日、急性肺炎のため虎の門病院において98歳の生涯を閉じた。戒名は謙恕院釈尼千瑛。忌日は「薄桜忌」と名付けられた。
岐阜県本巣市(旧本巣郡根尾村)にある樹齢1500年以上の彼岸桜の古木である「淡墨桜」の保護を訴え活動した。
同市のさくら資料館には淡墨桜に関する千代の作品が展示してある。
さくら資料館(さくらしりょうかん)は、岐阜県本巣市の淡墨公園内にある本巣市立の淡墨桜に関する資料館である。
淡墨桜の樹勢を回復するために行われた1949年(昭和24年)の歯科医前田利行による根接ぎの様子や宇野千代の淡墨桜に関する作品などが展示してある。